もるの日記

なんでもないこと

ケトルが来た【到着編】

最近日常に革命が起きた。

待ちに待った電気ケトルを、一日の大半を過ごす自室に置けることになった。

 

昔は自室に置いてあったが、数度の転居を経て、私個人のケトルはいつの間にやら別に住む家族の所有物になっていた。

お湯くらい台所の共用ケトルで沸かせばいいと思っていたが、私の部屋は台所から最も離れており、廊下、階段、玄関、また廊下と移動を経てようやく辿り着ける。

これが冬場は本当にたるい。

 

私は健康の為に、水はなるべく我慢せず、飲みたい時にたくさん飲むべきだと思っている。

便秘も肌荒れも、まずは水をゴクゴク飲むことが治療の第一歩だと信じている。

だから家族にも自分にも、カフェインの入っていない水分を気軽に摂れる環境を家の外でも中でも意識して欲しいな、と淡く願っている。

うちは貧乏性なので、水のペットボトルを一本買うのを躊躇してしまう。かといって、水道水はちょっと……という気持ちも捨てきれない、わがままな貧乏だ。

夏場の出掛けなんかは自販機で500㎜の水一本を手に入れたって、そんなもの午前中、お昼も食べた頃には無くなってしまう。

でも2本目を買うのはもったいない。

それで帰宅まで持たせようとするから、結果ちょびちょび飲んで我慢してしまう。

そして熱中症になったりしたら本末転倒だ。

 

話が逸れたが、いつでも水を気軽にゴクゴク飲める環境が、健康や美肌の第一歩だと思っていることは伝わったと思う。

 

だから、冬場に部屋の中で飲用できる湯が手に入る喜びは、それはもう大きかった。

熱源が部屋にある。

本当に革命的な喜びだ。

 

ケトルは、結婚した友人が転居と共に不要になった10年もののケトルを頂いた。

やはりケトルは転居とともに人の手を渡り続ける生き物なのだ。

そんな長い年数を使ったとは思えないケトルを、ワクワクしながら部屋で開封した。

白と淡い水色の、こじんまりとした革命児からは、友人の匂いがした。

その友人と会った時に感じる匂いが、確かに染み付いていた。まるで、先ほど別れた友人が「よっ」と部屋に入って来たかと思うほどに。

それは決して悪臭ではないが、電気ケトルというツルッとした形状のものにも「ヒトの匂い」というのはうつるのだと感じて、少し恐ろしかった。

きっと私の部屋にある服や本は当然として、ネイルランプにも私が気づかないだけで、私の匂いが染み付いているのだろうなと思った。

なんとなく居心地が悪くなって、ケトルの外側を重曹で磨き、内部をクエン酸で煮沸した。

すると匂いは嘘の様にあっさりと消えた。

今後私が他人にネイルランプやこのケトルを明け渡すことになったら、たとえ自分が匂いを感じなくとも同じ様に洗浄してから渡そうと、密かに肝に銘じた。

 

さて、すっかり前の飼い主の記憶をリセットされた哀れなケトルは、こうして私の部屋のカラーボックスにましますことになった。

 

長くなってしまったので、ケトルが部屋にあることで具体的にどんな喜びがもたらされたのかは、また次のブログで書こうと思う。